窓辺のプラネタリウム
窓辺のプラネタリウム
小学生のとき、押し入れに星空をつくった。
黒い画用紙に穴を開け、懐中電灯で裏から照らす。世界は単純な仕掛けで広がりを見せる。
布団の匂い。埃の匂い。光は埃に出会うと、星になる。
大人になって、私は窓のある狭い部屋で暮らすようになった。窓の向こうには本物の夜空がある。
はずなのに、ビルの明かりが空を浅くする。深さを失った夜は、海のない地図のようだ。
今日、上司に言われた。「君の仕事は、光が弱い」
弱い光は、役に立たないのだろうか。私は、押し入れの星を思い出す。あの星は弱かった。でも、私にとっては十分だった。十分どころか、過剰にさえ思えた。だって、世界は押し入れに収まって、息をひそめていたのだから。
帰り道、百円ショップで懐中電灯を買う。部屋に着くと、カーテンを閉めて、白い壁に向けて光を走らせる。光は、部屋の角で折れ、観葉植物の葉で砕け、やがて私の頬に戻ってきた。「ここにいるよ」と言うみたいに。
机の上のメモに、いくつかの言葉を書き出す。
「弱い光の仕事」
「埃の星」
「見えない地図を辿る」
言葉は並ぶと途端に生き物になる。ひそやかに呼吸し、互いの体温でぬくもる。
窓ガラスに額を当てる。外の明かりは、相変わらず忙しく瞬く。強い光は、見落としを許さない。でも、許さないことは、必ずしもやさしさじゃない。弱い光は、輪郭を残し、影を抱き、まだ名付けられていないものを受け入れる。
ふと、スマホに通知が入る。友人からの写真。山奥の宿。満天の星。画面を指で広げても、星は増えない。当たり前だ。けれど、私の部屋では星が増える。懐中電灯の向きを少し変えるだけで、世界の配置が変わる。
上司の言葉は消えない。けれど、別の言葉も重なる。「弱い光でしか見えないものがある」。
私は、机に戻り、仕事の資料を開く。強い光で白飛びした領域の、隙間。グラフの脚注。
数字の裏にいる人の気配。
そこに、私の懐中電灯を向ける。輪郭が見える。影が生まれる。影があるから、立体になる。
夜は更けた。窓の外は、ようやく少しだけ深くなる。
私は押し入れの扉を開け、布団の匂いを吸い込み、懐中電灯を消す。暗闇に目が慣れるまでの数十秒。世界は何も減らない。むしろ増えていく。見えないものの名前が、ゆっくり浮かぶ。
——弱い光で、歩いていこう。
弱い光は、私の速さだ。
そして、誰かの目には、その光が十分強い日が来る。
