雨宿り喫茶「すみれ」
雨宿り喫茶「すみれ」
——扉についた鈴が、ひとつぶ揺れる。いらっしゃいませ、の声は、湯気に紛れて聞こえなくなる。
外は雨。粒が大きい。誰かのための拍手みたいに賑やかで、だけど私を称える音ではない。傘を忘れた僕を、せめて許してくれる音でもない。
席に座ると、窓ガラスが波打って、街がゆっくり形を崩す。知らない人の肩、濡れた犬、置き去りの黄色い自転車。すべてが、ぼんやりやさしい。やさしいものは、ときに卑怯だ。輪郭を奪って、判断を遅らせるから。
マスターは、私の顔を見るなり、ミルク多めの珈琲を淹れてくれた。ここへ来るのは二度目だ。最初は泣いていた。仕事を失って、言い訳を失って、最後に、泣く理由さえ失っていた。それでも涙は出るのか、と思いながら、砂時計みたいに落ちていく自分を、ぼんやり眺めていた。
「今日は、よく眠れそうですか」
マスターの声は、雨よりも静かで、でも確かに耳に触れる。
「わかりません。眠れたとしても、朝が怖くて」
「朝は、珈琲の香りで呼ぶといい」
「そんなことで来ますか」
「香りは、失くしたものを連れてくる」
失くしたもの。鍵。勇気。小さな約束。背筋。名札。笑い声。名前を挙げていくほどに、指先がかじかむ。
マスターは、カップの取っ手をこちらへ向け直し、「それでね」と続ける。
「雨は、誰かのために降るわけじゃない。けれど、同じ屋根の下に、見ず知らずの人を集めることはある」
「ここみたいに?」
「そう。だから雨に礼を言う人がいる」
カップに口をつける。ミルクの重さが、舌にそっと乗る。温度が喉を通るたびに、胸の奥の固まりが少しずつ形を変える。
窓の向こうで、黄色い自転車の持ち主が戻ってきて、サドルを拭っている。彼は空を見上げて、濡れた頬で笑った。笑っているのは、顔か、雨か。
「僕、明日、面接なんです」
言ってしまうと、急に幼い声になった。
「よかった。ここは、明日に行く人の喫茶店だから」
「落ちたら、また来てもいいですか」
「もちろん。合格したら、もっと来なさい」
カウンターの向こうで、砂時計がひっくり返される。音はしない。でも、落ちていく砂は確かに時間だ。
雨は少し細くなり、店内の音が輪郭を取り戻す。スプーンが皿に触れる小さな音。新聞をめくる控えめな風。誰かのため息が、うん、と頷きに変わる瞬間。
「香りで朝を呼ぶ」とマスターは言った。
なら、私はこの香りを持って帰ろう。傘がなくても、香りは濡れない。
立ち上がり、会計を済ませると、扉の鈴がふたつぶ揺れた。
外へ出る。雨は、まだ、降っている。
でも、私の肩に落ちるのは、少し、やさしい。——明日は、まだ来ていない。けれど、ここから呼べる。
